2013年5月3日金曜日

神明神社(鳥羽市)石神さん



三重県鳥羽市相差(おおさつ)に鎮座する神明神社であるのである。

そうね、伊勢市の伊勢神宮からは車で山道をぐるぐる回って、1時間ちょっとかかるのである。

神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社であるのである。

つまりこの鳥羽市の神明神社も伊勢神宮内宮のご祭神を分祀したものであるわけであるのである。

神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として伊勢神宮と同様に「お伊勢さん」と呼ばれることもあるのであるつーことであるのである。

神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているのであるが、どなたかの飯田放題の一説では約1万8,000社てなことであるので、いわゆる言ったもんがちであるのである。

一方、岡田荘司つー誰だかさっぱり知らない人によれば、祭神で全国の神社を分類すれば、伊勢信仰に分類される神社は、全国2位(4425社)であるということであるのであるが、まあ、マニア以外にはどーでもいいことかもしれないのであるが例によって一応言っとくのである。

祭神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき神明神社は広く信仰を集めたわけであるのである。

古代においては王家の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、王家にとってのみの氏神から日本全体の鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わったつーことであるのである。

また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなったのであるが、1,800もあったのではありがたみにかけるつーご意見もあるかもしれないのであるなんてことは間違っても言ってはいけないのは言うまでもないことであるのであるていてい。

特に神仏習合の教説において神道側の最高神とされたことなどにより近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになったつーことであるのである。

その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使も鶏であるのである。

まあ、余談であるが、鳥居の起源説のひとつとして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとすることから、鶏が神使つまり神の使い眷属であるわけであるから、その眷属神としての鶏さんがうろうろなさってるところを意味するものであるということが言えるわけであるがあたしが天照大御神ねーさんに直接聞いたわけではないのであくまでも霊界通信御筆先の神のお告げの口から出まかせであるのは無論のことであるのである。

神明神社の鳥居の形は主にいわゆる「神明鳥居」であり、素朴な形式で全体的に直線的であり、その建築様式は神明造であることが多いのであるは当たり前といえばあたりまえであるというご意見は当然多々あると思うのを考察に入れても一応言っとくのであるなんだこれ困った。

なお、「神明」という言葉は天照大神のことを指すほか、単に「神」という意味でも用いられるのであるが、例えば「天地神明に誓う」の「神明」は後者の意味であるのであるが、ううう、これ、蛇足だろうねえあなた。

明治時代に全国の神社の調査が行われたが、その神社の氏子に神社の祭神について質問した所、氏子も何の神が祭られているかを知らず、「神」というつもりで「神明」と答えたら、天照大神を祀る神明神社ということにされたという例も少なくないつー話もあるぐらいあのねのねであるのである。

さて、この鳥羽市相差(おおさつ)の神明神社には25柱の神が祀られているのであるが、その中の一つに参道にある小さな社石神さんと親しまれている女神があるのであるがへー女神だったのかとあたしはここに来ていまさらながらわかったのでこんな神域探訪はどーなんでしょーかとみずからのいいかげんさにうううだめだ。

ご祭神は、神武天皇の母 玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、海女たちが古くから「女性の願いならひとつは必ず叶えてくれる」と密かにお参りを続けていたのであるが、いつの間にやら全国から参拝客の絶えることがない社になって、25柱の神が祀られてしまうほどに押しも押されもしないが境内でおしくら饅頭だってできるごりっぱな神社と相成ったのである。

まあ、この神明神社までの門前町参道は住宅街であるのであるが、車一台がやっと通れる程度の道幅で、そこをバスを降りた団体の観光客の皆さんがぞろぞろ歩いてご参拝なさるので、その細い道には付近の皆さんが農産品や海産物を並べて売ってたり、おばさんがサザエの壺焼を焼いて売ってたりするので、まあ、なんつーのか、なかなかよろしい雰囲気であるのであるが、あたしはサザエのつぼ焼きを食いたかったのであるが、焼いてるのを待ってるのがめんどくさいので食わなかったので実に残念といえば残念で、ああ、少し我慢して食えばよかったとくいしんぼーを人生の課題することに多少の悔いがのこる参拝となったのであるがおいおいあんたは神さまよりサザエのつぼ焼きかいとツッコミをいれられるのを覚悟でボケをかましてみるわけであるってううむいかんなこれでは読者がますます呆れて読まなくなるのが必定であるのであらいやんあなたってアレなのねであるのであるあああ神さまだずげで。

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